父は病院で亡くなった。58歳だった。
亡くなる数日前だったと思う。
病室に行くと、見知らぬ女性が父のそばに居た。
私はその女性に軽く会釈をし、そのまま病室を後にした。
父とその女性は静かに会話をしていたが、二人の間には妙な空気が流れていた。
家族とは違う。
でも、ただの知人とも違う。
今になって思う。
もしかすると父は、あの女性と身体の関係を持っていたのかもしれない。
だが、本当のことは分からない。
証拠なんて何一つない。
ただ、あの時の二人には、男と女の空気があった。
少なくとも、当時の私はそう感じていた。
とはいえ、その頃の私にとって、そんなことはどうでもよかった。
父はもうすぐ死ぬ人間だった。
私は父と不仲だったし、父に対して何の情も持っていなかった。
だから、父が不倫していようが、していまいが、どうでもよかったのだ。
父は昔から怖い人間だった。
私が小学生の頃、父は食道がんを患い、大手術を受けた。
胸から腹まで大きく裂かれ、身体中に管を繋がれ、酸素マスクをつけてベッドに横たわっていた。
普通なら、「死ぬかもしれない」と思うような光景だったと思う。
だが、当時の私は父が死ぬとは思わなかった。
いや、違う。
父という存在が消える未来そのものを想像できなかった。
それくらい父は、私にとって恐怖そのものだった。
父は私を殴った。蹴った。怒鳴った。
私は父から逃げるために、他県の祖父母の家へ逃げたこともある。
一度だけ父を殴り返したこともあった。
そうしないと、自分の身が危ないと思ったからだ。
そんな父だった。
だから、父が弱る姿を見ても、私は同情しなかった。
むしろ、自業自得だと思っていた。
父は家族よりも友達を優先する人間だった。
帰宅はいつも遅かった。
家に居ても野球中継を見て、テレビのチャンネル権は常に父が握っていた。
誰も逆らえなかった。
だが、家を建て替えてから、家の空気は変わった。
父の力は弱くなっていた。
晩ご飯の時、母は無言で食事をテーブルに置くだけ。
父も無言で食べる。
食べ終われば、母が無言で片付ける。
会話はない。
そこに夫婦らしさは何も無かった。
父には、もう家の中に居場所が無いように見えた。
だが私は、それを見ても何も思わなかった。
「自分で蒔いた種だろ」
そう思っていた。
家族を蔑ろにし続けた結果だと思っていた。
だから、父が孤独そうに見えても、私は冷ややかに見ていた。
ある時、父宛てに地方裁判所から封筒が届いた。
「破産係・再生係」
そんな文字が見えた気がする。
だが、その封筒はすぐに消えた。
父の死後、私はその中身を見ることになる。
父は連帯保証人になっていた。
そして、死ぬ前に全て返済していた。
父は、人から頼られることに、自分の価値を感じる人間だったのだと思う。
家族ではなく、外の世界で。
そんな父だった。
やがて父は再びガンになった。
最初の手術は成功した。
だが、その後、血が止まらなくなった。
医者から「長くない」と告げられた。
そして、その事実を本人に伝えてくださいと言われた。
父は取り乱していた。
子供の頃、あれほど怖かった父はもうそこには居なかった。
ただ、自分の死に怯える、一人の弱った男が居ただけだった。
私は父に言った。
「お母さんのことは俺が面倒みるから心配しなくていいよ」
父は少し落ち着いたように見えた。
覚悟を決めたのかもしれない。
だが、その時の私は特に何も感じていなかった。
私は仕事を辞め、家に引きこもっていたので、頻繁に父の見舞いへ行った。
だが、父と話すことは何も無かった。
私はただ、ベッドで横たわる父の横に黙って座っていただけだった。
毎週、水曜日になると週刊少年マガジンを買って病院へ持って行った。
父との繋がりは、それくらいしか無かった。
ある日、父の従姉妹が見舞いに来た。
そのおばさんは、父の服を脱がせ、汗を拭いてあげていた。
私は驚いた。
私も、母も、そんなことをしなかったからだ。
自分たち家族は、ここまで父に無関心だったのか。
そう思った。
だが同時に、それも当然だとも思った。
そして数日後、父の身体は別人のように痩せ細っていた。
骨だけのような身体。
その姿を見た時、私は初めて理解した。
「ああ、もう死ぬんだ」
と。
それでも、私は何も感じなかった。
父は死んだ。
病院のベッドに横たわる父を見下ろしながら、私は心の中でこう思っていた。
「ざまぁみろ」
「お前が蔑ろにしてきた家族が、ここに居るんじゃ」
「お前が大事にしてきた友達はどこにおる?」
私は心の底から父を軽蔑していた。
だが、葬式には300人以上の人が集まった。
父は外面が良かった。
人付き合いも良かった。
面倒見も良かった。
だから、これだけの人が集まったのだろう。
私はその光景を見ながら、複雑な気持ちになった。
そして父が死んで20年が過ぎた今、私は突然、あの病室の女性を思い出した。
家族である私が居ても、遠慮することなく父に寄り添っていた女性。
あの女性は、父とどういう関係だったのだろう。
本当に不倫相手だったのかもしれない。
あるいは、ただ父を支えていただけなのかもしれない。
真実は分からない。
だが今になって思う。
家に居場所がなく、家族からも必要とされず、孤独を抱えていた父にとって、あの女性は理解者だったのではないか、と。
私は父を許したわけではない。
今でも、父がしたことを肯定する気はない。
だが、20年経った今、ようやく私は父という人間を考え始めている。
あの時、病室で寄り添っていた女性を思い出しながら。


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